「動機」の評価と「行為」の評価。

「動機」の評価と「行為」の評価。

「動機」の評価と「行為」の評価。

何かの行為を為す際の「動機」の善悪と、その動機がもたらした「行為」の善悪は別々に評価されうるべきだと思います。

例えば3.11以降の福島に対する対応。
この対応における多くの人の「動機」は概ね善であると思います。誰しもが闇雲に混乱を煽ったり、特定の人を不幸に陥れようと行動しているわけではない。多くの人の「動機」はそういう悪いものではなく、むしろ「できる限り被害者を減らしたい」というような、善と言えるものがほとんどであると思われます。
ただ、一部の人々の言動を見るにつけ、動機が善だからといってその行為もすなわち善になるわけではないと痛感します。

例えば親の子に対する体罰。
仮に親の「動機」が「ちゃんとした子供に育って欲しい。『悪いことをしてはいけない』と理解して欲しい。」というものであったとします。この動機自体は概ね善と言えると思います。厳密に言えば「親が持つ善悪の価値観を子供に強要するのか!」などと突っ込めるかもしれませんがそれはさておき。しかしながら、この動機を達成する手段としての「体罰」は善ではない。結果として子供が心に傷を負ったりするのならば、動機がいかに善なものであってもその行為まで肯定的に評価されるべきではありません。

こう考えてみると、「動機の評価と行為の評価は別」というのは至極当たり前のことだと思います。
もちろん司法判断における情状酌量など、行為の評価の一部に動機の評価が含まれるケースもあります。「善な動機+悪な行為」と「悪な動機+悪な行為」を比較した場合前者の方がまだマシなのは当然です。しかし司法判断においても行為の評価の前に動機の評価がなされることはありません。また動機の評価によって行為の評価が覆されることもありません。両者の評価は完全に独立です。

しかしながら時として人はそれを忘れがちになる。動機が善であれば即ち行為も善であると考えてしまいがちになる。
自分の子供の安全を確保するためであれば何をやっても許されると思ってしまう。
福島の人々の被害を減らすためであれば何をやっても許されると思ってしまう。
でもそれは違う。
愛情があるからと言って過保護や体罰が肯定されるわけではない。
被害者を減らしたいからと言って嘘の情報の拡散が肯定されるわけではない。

つまり我々が善たろうとするならば、その動機だけでなく行為についても細心の注意を払わねばならないと思うわけです。

ちなみに、両者の評価は完全に独立であるが故に、行為が悪だからと言って動機までもが悪と評価されることもありません。動機が善ならば行為がいかに悪だろうとその動機自体は善と評価されるべきです。
過保護や体罰が肯定されないからといって直ちに愛情までもが否定されるわけではない。
嘘の情報の拡散が肯定されないからといって直ちに被害者を減らしたいという思いまでもが否定されるわけではない。
つまり、行為への批判は動機への批判に直結しない。このため行為への批判に対し、動機の正当性をもって反論するのはお門違いだと思うわけです。

こんなことを考えていると、ますます生きるって難しいなーと思ったりします。