もしもサンデルが京大カンニング事件を考えたら?

もしもサンデルが京大カンニング事件を考えたら?

もしもサンデルが京大カンニング事件を考えたら?

京大カンニング事件。
このエントリーが公開される頃にはもういい加減ほとぼりは冷めていると思いますが、一時期は内戦になりかけているリビアやニュージーランドでの大地震を差し置き連日トップニュースとして大々的に報道されていました。

言ってみれば、たかがカンニング。
彼は日本で初めてカンニングをした人物という訳でもないでしょう。
僕だって中学時代の試験の際、事前に下敷きに一生懸命数学の公式を書いたりしたことだってあります。
そんな身近な過ちを「されどカンニング」にまで押し上げた理由は一体なんだったのか。

恐らくこの事件がここまで大きな物議を醸す対象となった理由の一つは、この問題が非常に多くの論点を含んでおり、さらに個々の論点ごとに賛否が分かれていたからだと思います。
(これだけこの事件に対する世間のリアクションが加熱した理由ですら、様々な考え方が世に飛び交っています。)
例えば、ブログやTwitterで語られているこの事件の論点をざっとまとめてみると下記のようになります。

  • 罪の捉え方
    • 不正をした学生が悪いのか?不正を許した試験官に落ち度があったのか?
    • 教育的配慮(=情状酌量)は必要か?不要か?
    • 罪状(=偽計業務妨害)は妥当か?不当か?
  • 報道のあり方
    • この事件はトップニュースに相応しいか?リビア内戦やニュージーランド地震など他のニュースを優先すべきか?
    • 過熱報道による社会的抹殺に問題ないか?この過熱は妥当か?
    • 恋愛遍歴、家族まで取材すべきか?プライバシーまでは侵害すべきではないか?
  • 制度
    • 記憶中心の入試に問題があるのか?それとも思考力を問うものに変えるべきか?
    • 入るのは厳しく出るのは易しい大学教育はこのままでいいのか?それとも欧米のように逆にすべきか?
    • 社会制度はこのままでいいのか?(記号化した学歴の偏重、新卒神話)

これらの論点はなんだか「これからの『正義』の話をしよう」の著者マイケル・サンデルが例示しそうなものばかりに思えます。
つまり、これらの論点の多くは明確に是非がつくものではなく、それはリバタリアニズムとコミュニタリアニズムのどちらが正しいか?という問いのよう。
換言すれば、これらの事件をきっかけにして、自分がリバタリアンなのかコミュニタリアンなのか、自分にとって社会とはどうあるべきか、こういうことを考えるいい機会になっているのではないでしょうか。

サンデルは、決して「マイケルジョーダンの高額な報酬は妥当か?」という問いを通じて「ジョーダンは寄付等を全然しないで無駄遣いばっかりしている。昨日も高級レストランを貸しきっていた!」と批判しろ、とかマイケルジョーダンの生い立ちを好奇の目に晒せ、と主張したかったのではありません。
一部の人間のみが高額な報酬を得られる社会が理想なのか、それとも偏りなくすべての人が同程度の富を得られるのが理想なのか、そのどちらを基本的な価値観として選択するか、考えてみようと言いたかったのだと思います。

逆に言えば、当事者も、報道するマスコミも、傍観する我々国民も、ただただ興味と好奇心だけをもってこのニュースを消費するのではなく、「ならばどのような社会が望ましいか?」ということを考える、議論するきっかけにすべきではないでしょうか。

というか、サンデルが流行ったのはこういう流れの予兆だったのではなかったの?

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