気づくことと気づかないこと、その認識の差。

体重計事件。
僕の体重計はWiFi機能がついていて、体重計に乗ると測定された体重と体脂肪率がリアルタイムでサーバにアップされ、それをiPhoneやiPadのアプリで見ることができます。ある日久々にそのアプリを立ち上げて自分の体重の推移を見ていると……なんか変。記憶にないデータが紛れ込んでる。おかしいなと思い測定時間を見てみると、平日の昼間。あれ、その時間会社なのに。ということは……。おかしなデータの正体はメイドさんでした。
一応この体重計、複数ユーザが利用してもその体重等の違いからちゃんと各ユーザを認識してデータを分けるのですが、たまたまこのメイドさんが僕と同じくらいの体重だったため僕のデータとして登録されてしまったというわけです。
これが判明した時は「メイドさん体重計乗ってんのかよ!」と面白く思いましたが、しばらくすると別の感情が。なんか快くない。体重計を使ってるのなら他の何かも使っているのではないか。疑念が疑念を呼びます。
よく考えるとこの不快感は自分の私的空間を侵された不快感。いや、プライバシーを侵されるなんてのはわかってました。メイドさんには鍵を預けて自分がいない間に掃除とかしてもらうわけですし。そんなのは別にいい。仕事の合間にウォーターサーバで水を飲んだりするのも別にいい。
しかし、今回はその痕跡を見つけてしまった。「水飲んだりしてるんだろうなー」という漠たる想像が確信に変わった。この認識の変化は非常に大きかったです。
※「メイドがいる」と聞くと「どんだけ贅沢な生活してるんだ!」と思われがちですが、インドネシアではメイドさんを雇うのは結構普通です。毎日来てもらって家事全般してもらっても月額1万円もしません。ので別に金持ちの証左ではありません……あしからず。

食事。
ジャカルタで生活している僕の食事は基本的にバーガーキングかショッピングモール内のレストランでとることが多いです。観光客が喜びそうな路上の屋台には絶対に行かないし、怪しげな安い食堂にも基本的には行かない。
その理由は衛生面。地元の人の話を聞いても、そういった店での衛生面での不徹底はよく耳にします。虫が入ってたとかヘンな薬剤が入ってたとか、それで気分が悪くなったとか。他にもその辺で売ってる野菜は菌と農薬がひどく洗剤で洗わないと食べられないなんて話も聞く。
かと言って、僕が行っているような店が安全という保証も特にない。日本人が日本食料理屋(インドネシアにはローカルフードと比べて安い日本食料理屋なんて存在しないので、日本食料理屋って時点で高級店です)で当たってお腹を壊した、なんて話は珍しくありません。
要するに衛生面でのリスクは高級店でも大衆店でもあまり差がないのかもしれません。
しかし前者は気にならない、後者は気になる。
この差は何か。結局体重計事件と同様、気づくか気づかないか、認識するかしないかの差ではないか。

Apple Store。
先日長年使っているMacBook Proのバッテリーが消耗してきたのでインドネシアのApple Store(厳密にはApple Authorised Service Provider)に修理に出しました。
その際ふと「自分のMBPのディスクに保存されているあんなデータやこんなデータが覗かれやしないか?」と気になった。インドネシアではまだまだコンプライアンスの意識やプライバシーの概念が高くありません。データを引っこ抜いてよからぬことをする、なんてこともありえない話ではない。
ただ、結局修理に出すことにしました。それはもちろん誰かにお願いする以外バッテリーを修理する方法がないこともありますが、それよりもリスクがあまり大きくないと感じられたことが大きかったように思います。きっとApple Store以外にもMangga DuaやAmbassadorなど「インドネシアの秋葉原」と言われるテックモールでも修理できたと思いますが、その際に感じたリスクの大きさは雲泥でしょう。その差は結局「Apple」というブランドに立脚する信頼感。


上記の3例のような「気づくか気づかないかの差」、もしくは「気づいたとしても重きを置くか置かないかの差」。これらは完全に自分の脳内で完結する「思い込みの差」だと思います。

結局個々人のリスク検知能力なんてこんなもの。それは往々にして不完全です。
日本では、リスクがないこと、小さいことが当然であると思われているような気がします。インドネシアと比較すると特に。レストランで食べる食事は全て衛生的だし、Apple Storeの店員は顧客の個人的なデータに不必要にアクセスしたりなんかしない。
いや、実はそういうリスクは常に一定程度世の中にあるんだけれども、リスクがないことが当たり前のように思われているがために、個々人の脳内にはそのリスクが存在しない、認識すべきものと思われていない。もしあるリスクが一度顕在化するとそれは猛烈な勢いで抹消(ないし隠蔽)され、その結果また人々の脳内には平和が訪れる。こんにゃくゼリー騒動やユッケ騒動はその最たる例ではないでしょうか。そして抹消されたリスクよりも大きいリスクが身の回りにあったとしても、それには気づかないため、あまり気にならないために脳内の平和は脅かさない。毎年一定数の死亡事故の要因になっている餅、川遊びや自動車事故などはこれに当たります。

この気分的リスク認知法は合理的ではありません。こんにゃくゼリーを注意深く避けながらも餅をむしゃむしゃ食べる老人は、低リスクを忌避し高リスクを歓迎しているようなものです。
しかしそれは詮なきこと。合理的でありたいならば定量的にリスクを測定すればよいですが、個々人が過去のデータ等に照らして各事象のリスク、それは死亡率だったり食中毒の罹患率を比較するのは容易ではない。結局個人は自分の不完全なリスク認知フィルターに依拠して生きるしかない。

ただその際重要なことは、自分独自のリスク認知フィルターを他人に強要しないことだと思います。僕のように「バーガーキングなら安全」と思う人間もいれば、「バーガーキングも他と同様に危険」と思う人もいる。個々人のリスク認知システムの大部分が「思い込み」である以上、そのフィルターが十人十色になるのは当然。それらのすり合わせは容易ではないし、そもそもすり合わせる必要がない。
個々人は自分のリスク認知フィルターに頼りリスク回避すればいい。それで回避できなければ自分の責任。でも決してその責任を他人に転嫁してはならないし、自分独自のフィルターを他人に強要してもいけない。僕も他の日本人に「メシはバーガーキングだけにすべき」なんてことを強要したりはしません。ただ他の人から生卵の乗ったマグロユッケを薦められても絶対に食べない。

一方、個人のケースとは逆に、組織や行政のリスク管理は「思い込み」に依拠するのではなく定量的にされるべきです。論理や定量に基づく評価が最もフェアであり、納得感を得やすいためです。当たり前ですが、組織や行政のリソースは有限であるため、その最適配分が求められます。資源の最適配分のためには、過去のデータ等に照らして各事象のリスクを評価し、リスクを回避するか受容するかを決定していく必要があります。
国民感情に流されて「リスクのより大きい餅は放置してこんにゃくゼリーを槍玉にあげる」なんてのは非常に効率の悪いリソース配分にしか見えません。目的がリスク低減ではなく国民の人気取りなら合理的かもしれませんが。

行政のリスク評価と個人のリスク評価が一致しない場合には、個人自ら受容か拒絶を選べばいいのではないかと思います。幸い日本人は多くの面で自由です。ただし個々人のリスクフィルターを人に押し付けてはならないという原則から、行政のリスク評価の拒絶はその管区からの離脱を意味する。一部のリスク、特に公害など市場でコントロールできないものは行政にしか管理できません。個人にできるのは行政のリスク評価に大してリアクションするしかない。それでも個人には、少なくとも日本人には選択肢がある。自分で選択して自分なりのリスク回避をすればいいのではないか。それでダメなら自分の責任、と諦めればいいのではないか。この辺は非常にリベラリズム的思想のため賛否両論がありそうですが。

長々と駄文を書き連ねましたが、そんなわけで僕は今のところバーガーキングに潜むリスクを受容するという選択肢をとっています。いつ訪れるともわからない腹痛の危機に怯えながら……。


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