選択の科学 (Sheena Iyengar)

選択の科学 (Sheena Iyengar)


今、インドネシアの会社で人事考課、給与体系の仕組みを考えています。
国が違えば労働法も税制も手当の考え方も平均賃金も違うので、日本の本社の制度をそのままインストールすればいいというものではなく、また人事考課は経営戦略との関わりが非常に深いが故に当地の他の会社の仕組みをコピペすればいいというものでもありません。

当初は非常に自由度の高い仕組みを考えていました。
基本的に給与は年俸制とし、各期ごとに社員個々人との面談で決定する。これは同様の職種且つ同程度の成果を出している社員の間でも給与に差が出る可能性があるため公平感に欠ける部分もありますが、その一方で抜群な成果を上げた者をその成果に合わせて柔軟に処遇できるため、社員にとっても非常に機会が多い制度であるとも言えます。要するに「ハイリスクハイリターン方式」。
一方で「ローリスクローリターン方式」も考えました。これは一般的なもので、職能や職級等に応じて給与テーブルを設定し、そのテーブルに沿って処遇を決めるというもの。これはどんなに抜群な成果を挙げようとそのテーブルの枠の中でしか処遇できないため柔軟性に欠けますが、一方で同様の職務に就いて同様の成果を上げた者は同様の給与を手にできるため、公平感は非常に高い。
人材獲得競争が熾烈な中で優れた人材は相応な処遇で確保したい、同時に経済成長真っ只中で給与水準が大きく変動しまた戦略も刻々と変化していく経営環境において可能な限り人事考課における柔軟性を確保しておきたい、そんな思いから当初は前者の導入を考えていました。しかしそのアイデアを何人かの社員に話したところ、口を揃えて反対されました。曰く、「不公平だ」と。
もちろん前者の仕組みが社員にもたらす大きな報酬のチャンスや、その一方で目覚しい成果が上がらなくても一定程度の給与水準(それも人材市場に照らして見劣りする数字ではありません)は確保されることなどを説明しましたが、結局納得は得られず。

「大きな給与を得られる可能性よりも、他の社員と同様に処遇される方がよい」
これが彼らの意見でした。
横並びであることにいささか辟易していた僕にとっては理解できませんでした。どんなに成績がよかろうと中学1年生の次は中学2年生をやらなければならない世界。がんばらなくてもそれなりにやっていれば給与テーブルに沿ってそれなりの給料が得られる世界。それは個人の処遇よりも秩序維持に重きを置いているのではないか?
それよりも横並びであることの方が重要とはどういうこと?最低限の給与水準が維持され、かつさらに報酬を得られる可能性がありながら、それを放棄してまでもきっちり横並びになっている制度の方がいい?もしかしたら自分が評価されずにそんなチャンスを得られない、なんて最初から諦めてるんじゃないのか?

こんなことを悶々と考えている時に本書を手に取りました。本書に書かれていることは20%も消化できていませんが、ただ上記の謎を解く鍵を本書の中に垣間見たような気がしました。

本書は人の「選択」という行為について、心理、生理、文化、宗教、政治、経済、など多様な観点から論じた本です。
本書は基本的には心理学に軸足を置くものですが、内容はもはや哲学書だと思います。
人は生まれてから死ぬまでに無数の選択を繰り返します。夕食の献立や週末に観る映画など小さな選択から進学、就職、結婚などの人生の岐路というべき大きな選択まで。その選択の一つ一つの積み重ねが人生を織りなしていくという意味では、これらの選択にどう向き合うかということは、人生にどう向き合うかということと同義。つまり「選択」を論じるということはある意味「生き方」を論じることであり、その意味で本書は哲学を論じたものと言えると思います。

最近、そんな哲学書における良著の条件とは、もしかしたら読者に混乱をもたらすようなものかもしれないと思うようになりました。
哲学が人の人生、生き方、幸福等々を扱うものであるとするならば、当然そこには模範解答などない。つまり「あなたは朝早く起きれば幸せになれます」というような「模範解答」を与えるような哲学書や自己啓発本は非常にすっきり爽やかな読後感をもたらす一方、そうであるが故に人々の思考能力を奪うある種の悪書なのではないか。その意味で、本書はマイケル・サンデルの「これからの「正義」の話をしよう」や、齋藤誠の「競争の作法」と同様に僕に大きな混乱をもたらした良著であると思います。

さて、冒頭の僕が感じた謎について。
その謎を解くヒントを筆者の両親の結婚に関するエピソードに垣間見たような気がします。
誰と誰が結婚するかということを本人ではなく親族ないし社会が決定する世界。敬虔なシーク教徒であった筆者の両親が初めて出会ったのは結婚式当日だったそうです。現代日本に生きる我々からすればこんな結婚は考えられない。しかしそんな我々の想像とは裏腹に、筆者の両親は幸せな結婚生活を送ったそうです。
彼らにとっての「選択」とは我々にとっての「選択」とは異質。それは「結婚するかしないか」「誰と結婚するか」という選択ではなく、「神が与え賜うた人生を真摯に全うするかどうか」という選択。
イスラム教徒が国民の大半を占める国、イスラム教に限らずともなんらかの宗教を信仰することを求められる国。ここインドネシアでは、必然的に人々の生活の中心には宗教があります。そんな彼らと、神の存在を認識できず資本主義経済にどっぷり浸かったリバタリアンの僕との間に、生き方に対する認識に大きな隔たりがあっても不思議ではない。というよりもそれは厳然とそこに存在する。
絶賛経済発展中の資本主義社会において同様の職務に就きプロフェッショナルとして仕事をする時点で、僕はなぜか僕と彼らの間にはなんら違いはないと思っていました。飲み会の仕方とかワークライフバランスはちょっと違うけど、違いはその程度だと思っていました。しかし、異文化とは食事の仕方や葬式の手順に表れるものではない。それは表層的なものであり、もっと根源的な違いはその哲学に現れる。それは一見して気づき難いが、ある時ふと深いところから現れる。

本書はそんな人生の捉え方の多様性、異文化とのつきあい方を教えられたように思います。

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