「○○のときに知っておきたかったこと」という本がいくつかあります。スタンフォード大学の教授ティナ・シーリグの著書「20歳のときに知っておきたかったこと」がその最たる例。人間誰しも「ああ、あの時にこのことを知っていたら!」と思うことはありますし、「今の知識を持ったままで人生をもう一度やり直せたら?」なんてことを考えたりもします。
僕もそうです。
- 小学生のときに自慢は他人の気分を害するということを知っていたら
- 初めて好きな子に告白したときにどうすれば相手の気持ちを慮れるかということを知っていたら
- 大学生のときに勉強だけに集中できる時間の大切さを知っていたら
- 就職活動をするときに自分が何を成し遂げたいかよく考えるべきということを知っていたら
などなど、大したことないものもあんまり人前では言えないことも多いですが、「ああ!あの時にこのことを知っていたら!」と思うことは数知れずあります。
ただ、本当に「あの時にそのことを知っていたら」、僕は今とは違う人生を、よりマシな人生を歩めていたのでしょうか?
……結局同じ人生を歩んでいたのではないかと思います。それは、「その時にそのことを知って」いても、それを理解できないからです。
学びには学びのタイミングがある。そのタイミングではない時に学んでも、結局腹に落ちず右から左に素通りするだけ。「勉強できる内が華」という言葉はその典型例です。僕も小中高大学とそれこそ耳にタコができるほど聞かされてきましたが、それを実感できたのは社会人になって自由な時間を失う一方勉強の大切さを実感した時です。実感しなければ行動には移れない。行動しなければ人生は変わらない。
小学生のときの仲間はずれにされた悔しさをいつまでも忘れずその原因や克服方法を考えつづけたから、思春期以降ずっとどうすれば好きな子とコミュニケーションが取れるか好きになってもらえるかについて必死で考え続けたから、社会人になってから大学時代に好成績を取っておくことの大切さとそれ以上に大学で学べたはずなのに学ばなかったことの勿体なさを痛感したから、就職活動特に面接がうまくいかず社会人になってもなぜうまくいかなかったのか何が悪かったのかを数年に渡って悩んだから、だから学ぶことができたし、学んだことを理解することができたし、その理解をもとに行動し少しずつ自分を変えることができた。僕の学びが正しかったのかどうかはよくわかりませんが、いずれにしろ自分の腹に落ちる何かはあり、行動して自分を変えることができたという点で、僕は一歩前に進めたような気がしています。
物事を学ぶには正しく失敗し、その失敗から学びとるしかない。そのプロセスを経ない学びは、ただ自分を通り抜けてしまい、行動には昇華されない。
大学の受験勉強をしていたとき、模試の受験中にどうしてもわからない問題があって考えに考えた挙句導いた自分の回答の正誤を確認するため解答が配られたそばから急いでその部分を確認して結局自分の回答が誤っていたことを知った時の自分の脳ミソがスポンジになったかのような感覚、そこで得た正しい理解、腹に落ちるような納得、スポンジに吸収されて定着する感触。
失敗しなければその出来事を振り返ることもない。振り返らなければその原因に思いを馳せることもなく、原因を見つけることもない。そして対策を思いつくこともなく改善することもない。一方で失敗なんてものはなかなかできるものではない。人間には誰しも防御本能が備わっており、失敗を避けよう、リスクをヘッジしようとする。それでも、かけっこのとき転ぶリスクを省みず全速力でコーナーに突っ込むヤツだけが、すりむいたヒザを見て学びを得るのだと思います。
というわけで然るべきプロセスこそがその果てに然るべき学びを生むわけで、あの時あれを知ってたところで結局僕がこれ以上マシになるのは土台無理だということがわかりました。
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