先日映画館で「ゼロ・グラビティ」を観てきました。最高でした!リアリティという意味ではクエスチョンマークがつくところが少々あるらしいですが、SF好きの僕にとってはとっても楽しめる映画で、最初から最後まで手に汗握りながらエンジョイしました。
さて、最近映画を見たり本を読んだりする時、よく「この映画、本から何を学んだか?」ということをつい考えてしまうのですが、本作を通して僕が学ぶことができたと思ったことは2点ありました。
1つ目は、宇宙で漂流した際の対処方法について。
「事故の記憶」でも少し書きましたが、映画を通した疑似体験は実際自分が同じ状況に陥った際のとてもよいガイドラインになります。大体の映画では危機に陥った際にパニックになる人はすぐ死にます。ここから、「助かるにはまずパニックにならないこと」がわかります。この映画からも学べるところは多々あって、例えば、「宇宙空間で回転したら止まらない」こと。宇宙では摩擦がないので慣性はそのまま維持される。もがいても止めることはできないので、やるべきことは回転を止めることではなく回転に素早く慣れるよう努め、酸素の消耗を抑えることになります。また「ハッチは勢いよく開く」という点も頭の片隅に留めておくべきことだと思いました。この学びのお陰で、いつか僕が宇宙ステーションに入ろうとハッチを開ける時は、恐らく身体を固定してから慎重に開けると思います。バカバカしいと思われるかもしれませんが、こういう学びが実際の体験において驚くほど活かさるということは、実際に自分自身がそういう体験をしてみてよくわかったことです。
もう1つは、理想的なリーダーシップについて。
今回の映画の中で、ジョージ・クルーニー扮するベテラン宇宙飛行士、マット・コワルスキーの危機的な状況における対応は際立っていました。常にアタマを冷静に保ちつつ、状況確認と報告等の基本動作を行い、素早く且つ高い精度で咄嗟の意思決定を行う。そして、これが特筆すべきことと思いますが、絶望的状況の中での楽観的なムード作りなど、まさに「映画!」らしい現実離れしたリーダーシップを発揮していました。本作において、彼は非常にいいリーダーシップの教材だったと思います。
さて、本エントリーでは、そんなジョージ・クルーニーから学んだ点の内の1つについて考察したいと思います。多かれ少なかれネタバレが含まれますので、まだ映画をご覧になっていない方は、ご覧になってから読まれることをお薦めします。
劇中、ジョージ・クルーニーは一見矛盾する2つのことを言っていました。
「諦めるな」
「「諦めることを学べ」
前者は宇宙空間での漂流という絶望的状況において地球への帰還を諦めるな、という意味で。後者は亡くなった娘への未練を断ち切れないサンドラ・ブロック扮するライアン・ストーン博士の心理状態に対して。
どちらのメッセージも全く正しいのですが、その一方で、この2つのメッセージが一見矛盾するが故に、なぜ「宇宙空間での漂流という絶望的な状況において、諦めることを学んでその状況を受け入れてはいけないのか?」「なぜ娘に対する未練を断ち切ることをせずそれに向き合ってはいけないのか?」という疑問が湧いてきます。
その疑問は言い換えれば、「諦めるべき状況」と「諦めるべきでない状況」は何が違うのか?という問いです。
一方、元陸上競技選手・400mハードル日本記録保持者の為末大さんは以前こんなことをツイートしていました。
【終わり】僕はある程度競技では達成したけれど、10代から20代の半ばにかけて捨てていたものもたくさんある。夢を諦めない為に諦めなきゃいけないものはたくさんある。幸せな人楽しそうにしている人を無視できる能力が無ければ夢の達成は難しい。
— 為末 大 (@daijapan) 2013, 4月 6
彼らが言う 「諦める」と「諦めない」の境界はどこにあるのか?
僕は、「諦める」とは「事実を受け入れること」ではないかと思います。
その事実がポジティブなものの場合は「諦める」という表現は用いられませんが、ネガティブな場合、この表現がしっくり来るように思います。「ゼロ・グラビティ」の例における「娘が亡くなったこと」は捻じ曲げようのない「事実」であり、どう足掻いても変わりようがありません。一方で「宇宙空間で漂流していること」それ自体は事実ですが、「地球への帰還が不可能であること」はまだ事実として成立していません。実際サンドラ・ブロックは劇中それが可能であることをその行動で証明して見せました。
このことから、前者は「既に成立した過去」として「諦めるべき対象」であり、後者は「未だ確定していない未来」として「諦めるべきでない対象」になるのだろうと思います。
もちろんどの時点で「事実として成立した」と判断するかは非常に難しい論点です。
「現時点で自分がオリンピックに出場できるくらい足が速いかどうか」という問いには誰しも簡単に答えられると思いますが、「自分が将来的にオリンピックに出場できるくらい爆発的に成長する可能性があるかどうか」という問いは未来に関するものなので、誰も100%の確信を以って「ある」または「ない」と言うことはできません。この場合は、その時点までの自分の100m走のタイムの推移、練習量とタイム向上の相関関係、練習または走ること自体に対する自分の意欲やストレス、こういった情報を分析したり他人のデータと比べてみたりすることで、「可能性が高いか低いか」ということはある程度の確からしさをもって言えると思います。そして「可能性が高いか低いか」がある程度わかれば、それに沿って意思決定ができるようになる。
こうして整理してみると、「諦める」か「諦めない」かの違いはそうした現状認識、現状分析の上での意思決定の方法論であり、「事実に基づいて次の行動を決めろ」ということがジョージ・クルーニーや為末さんのメッセージではないかと思うのです。
僕も30代半ばにして未だ「自分は一角の人物になれるのでは……?」という淡い期待を諦めきれずにいますが、そろそろこの映画から学んで現実を受け入れてみようと思います……。
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