自由とは何か。
僕が通った中学高校は自由な学校でした。
授業に出席するしないも自由だし、学校に何を着てくるのも、髪型もアクセサリーも自由。校則は確か「校内での麻雀禁止」「授業中の出前禁止」「校内での下駄履き禁止」くらいしかありませんでした。
ただ、そんな中学高校時代に学んだ重要なこと。それは「自由とは責任と一体である」ということです。
授業に出ないのは本人の自由。しかしそれによって成績が落ちようと単位を落とそうと、それは本人の責任です。学校や親に泣きつくのは「カッコ悪い」こととみなされます。
自由を求めればそれに伴う責任も追わねばならない。しかし逆に言えば、責任を負いさえすれば自由を勝ち取れる訳です。
人は誰しも表面的には自由を求める。しかしその一方責任からは逃れたい。人生とは、そんな自由と責任とのトレードオフにうまく折り合いをつけることなのかもしれません。
一番最悪なのは自由を謳歌した挙句その責任を他者に転嫁する人。先述した自ら授業に出なかったのに「親や学校が注意してくれなかった」などと言い出す人はこの類でしょう。
そして多くの人が陥るのは責任から逃れるために自由を放棄するパターン。郷原信郎氏が著書「『法令遵守』が日本を滅ぼす」で指摘した世間からの責任追及から逃れるために法令の枠にこもる企業や役所もこれに当てはまります。
しかし「責任放棄のために自由を放棄している」という現実を認識している人はまだいい。多くの人は「責任放棄のために自由を放棄している」こと自体に気付いておらず、本当は自由を希求しているのに自由の取り戻し方が見えていないのではないでしょうか。
本書はそんな人に向けた「自由の取り戻し方」の指南書です。
本書で語られるエッセイのテーマは自己満足の肯定であったり自律のススメであったりします。世間がなんと言おうと、またマジョリティに属していなかろうと、自分が幸せだと思えればそれでいいじゃないかという主張。30歳を過ぎて結婚していなくてもいいじゃん、大企業に就職できなくてもいいじゃん、保険だってある程度の貯金があればいらないじゃん。
このように今まで知らず知らずのうちに「こういうもんだから」と決めつけて放棄してきた自由、それを「いや、こうすりゃいいじゃん」と一つ一つ説明します。
そこに書かれているのは「幸せは他者に規定されるものではなく、自分で決めるものである」というスタンスです。
これまでの人生で知らぬ間に蓄積されてきた固定観念から解放されること、それが自由なのではないか。しかしその固定観念に長い時間浸っていると、その「外側にある選択肢」が見えなくなる。本書の価値は、時に極論も交えながらその「外側」を見せてくれることだと思います。
さらに面白いは、筆者の記述スタイル。
このような自由への指南書を書く一方で、「信じるも信じないもあなた次第」とどこかで読者を突き放すような、そんな雰囲気を持っています。そのスタンスを象徴的に表しているのが常にブログエントリーの末尾につけられている「そんじゃーね」の一言。
本書を参考にするもしないも読者の自由。確かに筆者は「固定観念に縛られない生き方」を例示しているだけで、それを推薦しているわけでも強制しているわけでもない。
その自由の責任を読者自身でなく筆者が負う筋合いはないし、「負うフリ」すらする必要がない。
結局は「あんたのアタマで考えな」というある種無責任なスタンスが全てのエッセイ、ブログエントリーに通底しており、これも僕が筆者の著作を好ましく思う理由の一つです。
本書の内容を信じて保険を解約して損をしたとしても、大企業への就職を諦め凹んだとしても、そのことで筆者が責められる筋合いはない。
自らの行動の結果もたらされた責任を自ら負うということ自体が「自由」なのだから。
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