危機感とは何か。


ある日運転手から唐突に質問されました。

「インドネシアは肥沃なのに、なぜ人々は貧しいのでしょうか?」

その場では「うーん、なんでだろうねー」なんて答えをはぐらかしましたが(というかまだ僕のインドネシア語レベルでははぐらかすのが精一杯)、恐らく、その答えは「肥沃だから」。

アリとキリギリスの童話は非常に有名ですが、あの話が成立するためには条件があります。
それは暖かい季節と寒い季節があること。
食料が充分に得られない寒い季節があるからこそ、アリは暖かい季節の間蓄財し、キリギリスは寒い季節にひもじい思いをする。しかし寒い季節が訪れなかったら?
寒い季節がなければ、キリギリスは一生勝ち組、アリはバカを見るだけです。アリだって好きで働いていたわけではありません。働くのは死にたくなかったからです。死の危険性がないことに気づいたアリは、恐らく次第にキリギリス化していくでしょう。

人は尻に火がついた時に力を発揮します。火事場のクソ力とはよく言ったものです。火事場でなければクソ力は出ない。つまり、不要不急のことなんて趣味でもない限りやろうと思わない。
「本当は働きたくない。しかし働かねば、冬がきたら死ぬ。」
この生への執着が力をもたらす。その力が、暖かい季節においてもアリが働くパワーとなり、モチベーションとなる。死の危険がなければ働く必要なんてない。

大昔、お付き合いしていた子に言われたことがありました。
「死の実感なければ生きている意味なんてないわよね。」
当時高校生くらいだった僕にはこの言葉の意味がさっぱりわかりませんでしたが、今ではほんの少しわかるような気がします。
常に死を意識すること。時が有限であることを知ること。その終わりの瞬間を先延ばしにすべくあらゆる努力をすること。与えられた時間を最大限に活用すること。
ビジネスマンが社内外でよく言われる「危機感を持て」という言葉の意味は、簡単に言ってしまえば「死に対する危機感 」を持てということだと思います。それはもちろん肉体の死という意味ではなく、ビジネスマンとしての死、社会人としての死。

社会人としての死。それは会社をクビになりどこの会社にも再雇用してもらえないこと。その死を意識できなければ、眼前のタスクを漫然とこなすだけの日々で安泰する。市場価値など考えることもない。その死を引き伸ばすことも、限られた期間を活用することも考えない。

もしくは国家財政の死。それは国家財政が破綻しそのツケを国民全員が負わされること。その死を意識できなければ、刹那的な利得に目が眩み高福祉低負担の政策を声高に叫ぶ。高福祉の財源を誰が負担するかなんて考えることもない。

産業革命が北の寒い地域からもたらされたのは、南北戦争が常に「裕福な北と貧しい南」の間で起こるのは (朝鮮半島はちょっと状況が違いますが)、北に住む人々の方が死を身近なものとして捉え易かったからではないでしょうか。そして過酷な自然環境が醸成する死の危機感ゆえに、生産性の向上に対してがむしゃらに取り組んだのではないでしょうか。

科学技術が発達し、自然の脅威を以前よりは克服できるようになった昨今、日常生活で生物としての死を実感するのは非常に困難です。異常気象で餓死する危険性も、天敵に襲われて絶命する危険性も、大昔に比べて圧倒的に低減している。そうであるが故に、死を実感するにはその感覚を自分で作り出すしかない。

海外に行ったことのなかった僕が、英語が全く話せなかった僕が海外赴任を希望したのは危機感からでした。それはビジネスマンとしての死の感覚。逆にその感覚がなければ、今も日本の自宅で「いつか英語勉強しなきゃなー」なんて思いながらぼーっとテレビを見ていたと思います。

一度立ち止まって周りを見渡してみた方がいいかもしれません。温かいと思っていた水の温度が熱いと気づいた頃には、もう茹で上がっていたりして。


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