感情と政治。

先日マーガレット・サッチャーを題材にした映画をみました。マーガレット・サッチャー。鉄の女。英保守党の女性初の党首であり、英国首相を10年以上に渡って勤め上げた宰相。新自由主義者として小さな政府を信奉し、財政支出が肥大化していたイギリス経済立て直しの立役者。
この映画自体の感想はマーガレット・サッチャーその人を演じたメリル・ストリープの演技のうまさ以外どちらかといえば「で、なんなの?」的な印象しか残っていませんが、そんな中でも印象に残ったのがこの一言。

「今の政治は感情ばかり。誰も思想やアイデアに重きを置いていない。」

歴史は繰り返すとはよく言ったもので、現代日本の政治の惨状はなにも日本に限ったものではないようです。インドネシアでもガソリン補助金が国家財政を圧迫しているのに、政治家は民意に押されその撤廃を何度も試みては頓挫している。「国があなたのために何ができるかではなく、あなたが国のために何ができるか、問いかけてください。」と言ったケネディ時代のアメリカも同様ですし、サッチャーが英国首相に就任する前の英国も同様。

基本的に人々は低負担高保障を求める。当たり前です。誰でも安くて美味しいものが食べたい。高くて美味しいのは当たり前、安くて不味いのも当たり前。安くて美味しいから価値がある。
しかし一方でどこかで妥協点を見つける必要があります。美味しいフルコースのフランス料理を吉野家と同じ価格で提供していたら早晩そのレストランは倒産します。
国家も同様。
高い保障を約束するなら支出が大きくなるのは当たり前。そうなれば税収を増やすしかない。税収が増やせないならば公共サービスは抑制するしかない。
このトレードオフにおける落としどころを見つけ、意思決定し、国を導くのが政治の役割。「何を捨て、何を守るか」という戦略を策定し実行するのが政治。その国家戦略の礎となるのが社会主義や資本主義、小さな政府や大きな政府などの思想。

しかし「政治家」という存在がただの数ある職業の一つになりつつある昨今、各政治家の目下の関心事は自らの職の維持でしかないように見えてしまいます。
行動の目的を「職の維持」に置くのならば、最も合理的な行動は集票しやすい行動をすること。ワイドショーでヒーロー/ヒロインになれそうなことをする。有権者が耳を塞ぎたくなるようなことは言わない。ここでの行動原理は、感情になってしまっている。

評価は賛否ありますが、近年で唯一長期政権を築いた小泉純一郎は、民意から政策立案するのではなく自らの思想ないし、その思想に基づき立案した政策を国民に問うというスタイルであり、他の首相とは大きく異なっていたように思います。
エネルギー政策然り、増税と社会保障然り、正解のない政策課題に対して個々の政治家ないし政党はその思想を明らかにし、その是非を選挙という制度を通じて国民に問うべきではないか。戦術にあたる個々の政策実行は状況に合わせて変化すれど、思想並びに政策は一貫性を持たせるべきではないか。
「国民の生活が第一」という言葉は聞こえはいい。しかし今の政策課題は、すでに利害が異なる多様なセグメントの集合である「国民」のどの部分を重視するのかという点について明らかにしなければ一貫性のある政策には結びつかない。

今の日本の政治の惨状は、サッチャーが持っていたような信念を誰も持っていないことではないか。
そんなことをサッチャーの言葉に垣間見たような気がしました。


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