事故の記憶。

2013年7月12日金曜日の晩から参加したダイブクルーズツアーにて、7月13日土曜日の晩に乗っていたダイビング船が転覆、沈没し、14時間漂流した末に無事救助して頂きました。もしかしたらこれを書いて公開すること自体不謹慎かもしれませんが、自分の反省並びに今後に向けた学びとするため、またそれを少しでも自分以外の方々と共有するため、私の記憶に基づきまとめた事故の経緯を記しました。
私の記憶に基づいているため、一部事実と異なる可能性もあります。出来る限り正確を期すよう、また不用意に個人情報を公開しないよう注意して執筆したつもりではありますが、万が一記述に不都合等ある場合は恐れ入りますが私までご一報頂ければ幸いです。


7月12日金曜日の晩から7月14日日曜日の晩までのダイビングツアーに参加した。目的地はクラカタウ、ジャワ島とスマトラ島の間のスンダ海峡にある火山島。クルーズツアーなので2泊3日を船上で過ごし、土曜日に4本、日曜日に2本ダイビングをして日曜夜に再びジャカルタに戻るというスケジュール。参加者は僕を含む日本人のダイビング仲間6名、韓国人ダイバーチーム4名ほど、他にインドネシア人ダイバーが何名か。集合はジャカルタ北部のプルイット地域にある桟橋、そこからダイビング船に乗り込む。20:00出航の予定だったが、発電機の故障で結局深夜2:00を過ぎた頃にようやく出航。それまで長らくダイビング仲間と歓談した後、出航を前に船室で就寝。
起きるともう朝の9:00。予定では6:30に起床、7:30に一本目のダイブのはずだったので、だいぶ寝坊したことになる。しかし誰も起こしにこなかったところを見ると、出航の遅れが影響してまだダイブサイトに到着していないのだろう。のそのそと船室から這い出てコーヒーを一杯。海はとても穏やかで波一つない。船もまったく揺れていない。
ダイブサイトへの到着は15:00頃の見込みとのこと。まだだいぶ時間があるので船内でダラダラする。せっかくなので先日購入したばかりの「Les Miserables」をiPadで観る。神、信仰、か。

目的地への到着までにはまだまだ時間があるので、その前に別のポイントで潜ることに。ジャワ島とスマトラ島のちょうど真ん中にあるサンギアン島にて、ここは第二次大戦中は日本軍が激戦を繰り広げたところらしい。1本目を潜った時点で既に確か14:00頃、そのまま2本目もここで。2本目はナイトダイブ、確か17:00か18:00頃だったように思う。この時点で雨は降っていたもののまだ小雨で、海は依然穏やかだった。

2本目を終えた段階でこの日のダイビングは終了。シャワーを浴びてから船内のダイニングルームで夕飯を食べ、くつろぐ。夕食を終えた後ふと窓の外に目をやると、雨足が次第に強まっている様子。風も強くなり始めている。徐々に船体が揺れ始める。最初は船はここに錨を下ろして停泊していたようだが、揺れがひどくなってきたので錨を引き上げ移動を開始した様子。エンジン音が聞こえる。

ふいに電気が消える。もともと発電機にトラブルはあったし、昨晩の出航前から電気は時々落ちているのでこれ自体は気にならない。しかし徐々に揺れが大きくなるにつれ、あちこちで食器などがテーブルから落ち床に散乱する音が。暗闇と揺れでその場を移動することもできず、ただじっとする。ふと気づくと天井から雨漏りしている。iPadが濡れてはかなわないと、iPadやら充電器やらを自分の背後、ソファーとの間に隠す。暗闇の船内から窓の外に目をやると、街の明かりが見える。しかしその明かりは窓枠を超えて上下に大きく揺れている。「相当揺れているな」と思った。

一度大きく揺れた。遊園地にある船の形をしたブランコ型のアトラクション、あのアトラクションが大きく振り子のように揺れて、船体がちょうど90度になった時のあの感覚、あんな感じで重力が90度変わった感覚があった。「あ、これは船が倒れたな」と思ったその瞬間、自分の真下に見える窓、さっきまでは僕の横に見えていた窓から、勢いよく水が入ってきた。「うわ、マジかよ!」と半ば他人ごとのように、呑気な感じで驚いた刹那、身体が重力に逆らえず下に、さっきまでの横だった方向に、落ちる。水。先ほどまでいた船室なのに、向きが変わったことと既に半ばほどまで水没していることで、自分の現在位置が全くよくわからない。どちらが上かどちらが下かもなんだかよくわからない。水から顔を出し、呆然。悲鳴が上がっている。急に船室が小さくなったような気がする。すぐそばにあった船外に通じるドアは既に壁ごとなくなっており、そこから海水が勢いよく木片とともに流れ込んでくる。ひとまずつい先程までソファーだったものに足を掛け、水流に抗って自分の位置を確保、周囲の状況を観察する。「状況を観察する」などと表現すると聞こえはいいが、言い方を変えるとただなにもできずそこに佇んでいただけ。水は勢いよく船室への出入りを繰り返し、その度に大きな木片が勢いよく流れ込んでくる。これに当たると怪我をしそうだ。まるで映画でよく見るパターン。こういう流木で頭を打ったり、身体に刺さったりして死亡フラグが立つケースが多い。まずはこういう障害物を避けることに注意を払うべきと思った。

ふと見るとダイビング仲間のSさんが眼前で水に呑まれている。手を伸ばして掴もうとするがうまく掴めず、結果彼はそのまま外に流されてしまった。後を追うこともできず、呆然とする。呆然とする間にも水位はどんどん上がってくる、というよりも船体がどんどん沈んでいる。恐らく船上に出なければならない、が、頭上にある窓は重くて結構力を入れないと開かない様子。殴ってぶち破るなどの方策はありそうだが、それで怪我をしても面倒だ。何か方策を考えよう。自分はすぐに行動するタイプではないらしい。色々考えて、最終的にベストな行動と確信できるまでは動くことができない。そのように熟考、というか呆然としているうちに、窓ガラスが窓枠から外れて落ちた。その瞬間は「おお、これで上部に出られるぞ!」と思ったが、今思うとこのガラスに当たらなくてよかった。とにかく、これで船体の上部に出られる。

開いた窓枠から上部に出る。既に何人かが船体にしがみついている。日本語で話しかけるも通じない、どうやら一緒にツアーに参加していた韓国人チームだ。ひとまず落ち着く場所を確保して、再び呆然。呆然と言っても全く何も考えられない状態でもなく周囲は観察している、が、観察で得られる情報からなかなか次のアクションが見い出せない。また声が出ないわけではないが、声を出す目的がわからないため、出せない。そうこうするうちにKさん、Oさんが近くに。Kさんが僕の名を呼ぶ、返事をする。寒さのせいか恐怖のせいか、僕の奥歯はガチガチ言っている。「Sさんが流されてしまったんです」と彼らに言う。そして流されていった方を見てSさんの名前を呼んでみる。すると返事。どうやら船のポールのようなものに掴まっている様子。よかった。そうするうちにも船はどんどん崩壊していく。木のメキメキという音。もう少し上に登る。しかしどんどん沈む。ふと見るとOさんが平らで大きな板状の船の残骸を見つけてそれに乗っている。明らかに安定度が高そうなのですぐにそちらに移る。Kさんも移る。移った板状の残骸の近くに救命ボートの入った白いドラム缶のようなものが浮いているのを見つける。昼間、ぼんやりとこのドラム缶を眺めていたのでこれが救命ボートと知っていた。その時は「でもこれってどうやって開けるんだろ?」なんて思っていた。「あれ、救命ボートですよね」とOさんに話しかける。「開けられないかな」そんな会話をしたその時、いつの間にか救命ボートが開いていた。「あれに移りましょう」とOさんが海に飛び込む。間髪容れず僕、Kさんも。3人がボートに乗り移る。この時点で他の人とは既に少し離れてしまっていた。「ここにボートがあるぞー!」と叫ぶも、既にかなり距離がある状態なので移る人は誰もおらず、リアクションもない。そのまま流され、離れていく。

結局ボートの上にはOさん、Kさん、僕の3人。現状を確認すると、僕にはほとんど怪我もなく、寒いことを除き特段健康状態に異変はない。長袖の撥水パーカーを着ており、ポケットには水没したiPhone。当然ボタンを押しても反応はない。暗くてよく見えないが、Kさんも特に変わりはない様子。Tシャツ、短パン。しかしOさんは「石油を飲んだかもしれない」と言って激しく嘔吐。OさんもTシャツ短パンのみ。激しく嘔吐するOさんを横目に何かしなければと思うものの、何をしていいのかわからない。背中をさすったところで彼の嘔吐感を和らげることができるのだろうか。そんなことが焼け石に水と明らかにわかるくらい彼の嘔吐は激しかった。救命ボートはなぜかいびつな形をしており、安定していない。また中央部にはかなり海水が溜まっている。依然波は大きく、かなり揺られる。為す術がない。ただじっと寒さに耐える。時間を確認、22:00頃だったように記憶している。幸い僕は腕にダイビングコンピュータをしていたお陰で、時間はもちろん気温なども把握することができた。暗闇の中で時間がわかるということは非常に心強い。どのくらい時間が経過したかがわかるし、また、例えば「日の出まであと何時間」など、この後どれだけ耐えればいいかがわかる。全く距離がわからないマラソンよりも、ある程度距離が見えている方が心理的には圧倒的に余裕ができるし、ペース配分も調整できる。

Oさん、Kさんは徐々に体温を奪われている様子だった。ボートの中の海水を掻き出そうと試みるも、道具もないし波でボートも安定しないため、うまくいかない。一方で、海水は思ったよりも温かく(水温29度ほど)、風雨に身をさらすよりもボートに溜まった海水に身を浸している方が風に吹かれて冷えることがない分まだマシなようだ。しかし雨と風で溜まった海水も徐々に冷えてくる。時折ボートの外の海水と入れ替えようとしたり、外の海水に手を浸したりして暖を取る。僕もできる限り身体を小さくし、風雨にさらされる表面積を小さくするよう努める。寒さによる震えは止まらない。周囲を観察してみると、遠くに街の明かりが見える。工場みたいだ。街からそんなに遠くないということは、船の往来もあるだろうし救助船の到着も近いだろう。他に船の明かりらしいものも見えるが、少し遠い。観察してもそれ以上の情報はなさそうだ。風雨に打たれ体温も下がり、また耐え忍ぶ以外なにもないので、3人ともぐったりしてしばしまどろむ。まるで悪い夢でも見ているみたいだ。

ふと顔を上げて周りを見ると、遠くにとても明るい光が見える。あんなもの、さっきはなかった。灯台か。それにしても明るい。再びまどろみ、しばらくしてからまた様子を観察する。徐々に形がはっきりしてくる。近づいているということだ。灯台ではない。動いている。船だ。それにしても明るい。漁船にしては明かりが工業的すぎる気がする。捜索船ではないか。救命ボートが広がったと同時に救命信号が発信されたのか、それとも船が沈没する際クルーが救命信号を発信したのか。理由はよくわからないが、とにかく僕らを探せるだけの明かりを持った船が近づいてくる。もう助かるのかもしれない。ただ、ふと最近映画で見た言葉が頭をよぎる。「Dark Knight Rises」でのベインの言葉、「人にとって、最大の毒は何だと思う?希望だ。希望があるからこそ、真の絶望がある。」ここまで救出を確信している状況で、救出されなかったらどうなるか。希望は捨ててはいけないが、希望を持ちすぎてもいけない。「これだけ期待していてあの船に見つけてもらえなかったら、凹みますよね……」と2人に話しかける。冗談めかして最悪のパターンもあることを共有しておきたかった。救助されなかった時に精神的に大きなダメージを受けるのを避けたかった。そうこうするうちに船は近くに来た。手を振った。しかし、なぜか声は出さなかった。船が救助のためのものだと確信していたせいか、その光で確実に自分たちの姿を視認できると思ったせいか、漂流して間もないために助かるための必死さが足りなかったせいか、理由はよくわからないが、力いっぱい手を振りながら、僕らは一言も発しなかった。船は次第に遠ざかっていって、やがて明かりは見えなくなった。

長い夜。とはいえこの時点でたしか午前1:00頃。既に3時間ほど経過している。あと3時間経てば日の出だ。日が出ればもう少し温かくなるだろうし、風雨も波もおさまるかもしれない。時計の効果はこういう考え方ができるところ。Oさんが自分の足の怪我に気づく。ひどい怪我で、右膝の裏側、ふくらはぎの上部の少し内側面のあたりがばっくりと裂けている。暗くてよくわからなかったが、かなりひどそうだ。出血は止まっていると本人は言っていたと思うが、ちゃんと止血すべきか、それとも痛みを思い出させてしまわないよう患部周辺への刺激は避けるべきか、よくわからなかった。結局どの選択肢にも確信が持てず、また行動できなかった。ボートは依然いびつな形で、大きな波に翻弄されている。息を殺すようにじっとしていると、自分にも不意に嘔吐感。胃の中の物を全て出すまでひとしきり海面に向きあった。

空が白み出した頃、KさんOさんのどちらかが「このボート、逆さまじゃないですか?」と言う。言われてみればそうだ。救命ボートがこんなに不安定なはずはない。この漂流が長丁場になるのならば、どこかの段階でこのボートをひっくり返して正常なポジションに戻しておくべきだ。しかしまだ周囲は暗く、波も依然高い。雨はいつの間にか弱くなっているが、3人が確実に海に落ちるであろうこのアクションを今行うのはリスクが高い。ひとまず日の出を待つことにする。

日の出は4:30か5:00頃だと思っていた。7月の日の出はそのくらいではなかったか。でもまだ周囲は暗い。雨足は弱まり、風は少し暖かくなってきている。パーカーをOさんに貸し、明るくなるのを待つ。6:00頃、かなり空が明るくなってきて、ようやく周囲のものを色付きで視認できるようになってきた。ゴムでできた救命ボートは真っ黒で、確かにボートはひっくり返っており、僕らがいるのは底面だった。底面の対角線上に黒い紐が貼られており、またボート側面から伸びている長いロープをKさんが見つけた。ボート中心部に溜まっている海水は濁っていたが、それはOさんの出血によるものだった。ボートをひっくり返す作戦を立てる。よく相談して計画してからやらないと、失敗して体力だけ消耗してしまったり、海に投げ出される危険性がある。5分10分を争う状況でもないので、落ち着いて話す。結局3人で立ち上がりボートの端を引っ張って2つ折の状態にし、その状態で船の表側に移り、まだ裏返っているもう半分をひっくり返す、という作戦に。波は依然高く、流れも速そうだ。作業中に海に投げ出されたらそのまま流されてしまうかもしれない。Kさんが見つけた長いロープを3人の身体にそれぞれ巻きつける。そして立ち上がり、黒い紐を引っ張り、ボートをひっくり返す。ちょうど2つ折りになった段階で、3人とも海に投げ出された。水に潜って足をつっぱり、残り半分もひっくり返そうと懸命に頑張る。しかしびくともしない。海の中ではすぐに体力を消耗してしまう。ひとまず3人ともボートに上がって一息つく。再度海に潜って引っ張ったり足を突っ張ったり、またボートの上から引っ張ったりした結果、ようやくボートは正常な形になった。

救命ボートはテントのような形になっている上、子供用プールのような形状なため、非常に安定している。逆に言えば先程までは裏返しの子供用プールに乗っていたようなものだ。大きかったからなんとか転覆せずに済んだものの、確かにこれでは安定しない。飛躍的に増した安定感に加え、テントの中にあったバッグには大量の飲料水があった。ボートは定員15名らしいので、量は十分。とりあえず水を貪る。その後このまま落ち着ける状態を作ろうとボート内の水をかき出したりするが、ここでまた急に嘔吐。急ぐことはない。ひとまずぐったりする。バッグに書いてある中国語のアイテムリストには飲料水以外に様々なアイテムがありそうだ。しかしKさんOさん曰くもう一つのバッグはボートをひっくり返したはずみでどこかに行ってしまったらしい。

周囲は完全に朝になっている。既に船が沈没してから9時間ほど経過している。あとどれくらい漂流するのだろう。恐らく最長で月曜の夕方頃ではないか。日曜の日中に救助されるのが最上だが、まだ周囲に漁船の姿は見えない。まだ波が高いせいか、日曜日だからか。夜の間に見えた街の明かりは工場のようだった。もしかしたら漁師なんていないのかもしれない。周囲にはタンカーのみ。タンカーはこの時点で何隻か見つけており、近づいて来るたびに大きな声で助けを呼ぶが、まるで気づいてもらえない。タンカーの甲板には人の姿も見えないし、万が一人が我々を見つけたとしても小さすぎて単なるブイにしか見えないのではないか。いずれにしろタンカーに見つけてもらうのは期待薄だろう。そうすると日曜日中に発見されるのは難しい。救命ボートにはランプがついているが、夜そのランプを使って発見されるのも可能性が低いだろう。最も可能性が高いのは、日曜夜に帰宅する予定だったダイビングツアー参加者が戻らず、その家族や会社の人が異変に気づき捜索を始めるであろう月曜日だ。幸い街は近い。捜索が始まればすぐに見つけてもらえるだろう。逆に言えば月曜の日没までに見つけられなければ、数日から1週間以上の相当な長丁場を覚悟する必要がありそうだ。月曜日の日没まであと約36時間。36時間程度であれば睡眠と食事なしで生きるのはそう難しくない。飲料水はある。幸い僕は怪我もしていない。問題ない。ただ他の2人はどうか。Kさんは細かい傷は多いが大きな怪我はないので大丈夫だろう。しかしOさんはどうだろうか。見ると既に傷口からの出血はない。しかし相変わらず傷口はばっくりと裂けており、肉がむき出しだ。徐々に痛みもひどくなるはず。水だけでどれだけ耐えられるか。映画「The Beach」の1シーンを思い出す。サメに噛まれつつも生き残った一人の仲間。彼も苦しんでいたが、彼の怪我はOさんよりずっとひどく、しかし確か1週間以上生きていた。それを考えると、Oさんも36時間くらいなんとかなるのではないか。しかし映画の彼は食事も飲料水も応急処置もあった。しかもあれは映画だ。Oさんは大丈夫だろうか。正直わからない。どちらにしてもこの3人の中で最も元気なのは僕だ。せめて僕が働かなければ。

周囲を見渡す。時折タンカーが通る。中には非常に近くに来るものもある。オールを振り、大声で叫ぶ。しかし梨の礫。タンカーに見つけてもらうのはほぼ不可能だろう。ふと周りの海に目をやると、乗っていたダイビング船の残骸らしい木片が漂っている。中には人が乗って掴まっていられそうな大きなものも。しかし人の姿はない。救命ボートに乗ることができた我々でさえ激しい風雨と波にさらされつつ夜を乗り切るのは至難だったのに、救命ボートがない人々にとってはどれほど大変だろうか。あまり考えたくはないし、考えてみてもどこか実感はわかない。そもそもここに至るまでの出来事に対してもいまいち現実感がない。そのお陰でパニックを起こさずに済んでいるし、そのお陰でいまいち死への実感、恐怖もない。今日の日没を過ぎると、もう少しその実感は湧いてくるのだろうか。とにかく、依然大きな波に揺られ続けている状況は大変だし、早く家に帰りたい。Tシャツを脱いで雑巾代わりにしてボート内の水を外に出す。疲れたらまどろむ。まどろむ間に夢を見る。色々なパターンで色々な人が救助に来る。目を開けると誰もいない。

やがてぐったりしていたKさんが復活。見張りを代わる。タンカーを見つけたようだが、僕はもうこの時点でタンカーには期待していなかった。Kさんが見つけたタンカーも、随分前からそこいにる。オールを振っても声をかけてもノーリアクションだった。ふとKさんが「このボートのテントの部分、帆のようになりそう。これを操作してどこかに移動できないかな。」とのアイデアを。「陸、ですかねえ?」「うーん。」またしばしぐったりする時間。僕はもう長丁場の覚悟。Kさんはテントをコントロールしようとしている。「あのタンカーの航路上にボートを移動できないかな?そうしたらタンカーも気づいてくれると思うんだけど。」実は少し前の時間に、我々の救命ボートがタンカーの航路上に位置していた時もあった。その時もタンカーは気づかなかった。あまり期待を持ち過ぎないようにしよう。僕はテントの反対側から顔を出していたため、テントに遮られてタンカーの姿は見えなかった。とりあえずオールは振り続けた。でも僕が振るオールよりもこの鮮やかなオレンジ色をしたボートのテントの方が目立つはず。大声を出してもどうせ届かない。笛か何かあればいいんだが。そういえば練習中の指笛があった。下手くそながらも、指笛を鳴らし続ける。

「気づいた!」
ふいにKさんが叫んだ。どうやらうまくボートをタンカーの航路上に移動できたようだ。かなりタンカーに近づくことができていて、甲板の船員を確認できたとのこと。ボートの反対側にいた僕にも次第にタンカーが見えてきた。船員と目が合う。確実に気づいている。よく見ると東欧出身の力士のような船員が多い。甲板の船員からロープが投げられる。しかしいま一歩届かない。次第にタンカーが目の前を通り過ぎていく。まさか。僕らを見つけたにもかかわらず見捨てていくようなことはしないだろう、そう思いつつも脳は防衛戦を張り始める。「希望は捨ててはいけないが、希望を持ちすぎてもいけない。」タンカーはどんどん離れていく。再度「Help!」と大声を出す。指笛も鳴らす。手を振る。船員は手を振って応えている。なのになぜ離れていくのか。ただ見捨てていくのか。そう思った時、甲板の船員が別の方向を指さした。見るとタンカーがもう1台。こちらの乗組員もこちらに気づいていた。手を振ると手を振り返す。希望は捨ててはいけないが、希望を持ちすぎてもいけない。それでもこの状況は確実に希望を持てる状況だ。最悪この2台のタンカーが助けてくれなくても、沿岸警備隊に連絡くらいはできるはず。街は近い。数時間で救助は来るはずだ。つまり救助はもう確実に時間の問題になった。月曜日の日没までと覚悟していたが、まだ日曜日の午前中。期待以上の結果だ。

2台目のタンカーも少し遠くに行ってしまったが、とはいえそこでとどまっている。見ると小型ボートを下ろしている。船員3人を載せた小型ボートが近づいてくる。大声を出してこのボートには3人乗っていること、一人は足に大怪我をしていることを伝える。ロープが投げられる。ロープを自分たちのボートに結びつけ、そのままタンカー脇まで牽引される。タンカーの脇に来たら、甲板の船員たちもロープを投げてきた。つかむ。小型ボートから来ているロープは外せと言われたので外し、そのまま甲板からのロープに牽引される。目の前の船体側面にロープでできた網。小さい頃アスレチック公園で見たようなものだ。「登れるか?」と甲板から聞かれ、「問題ない」と答える。「ただ、3人のうち1人は足を怪我しているから無理だ」と伝えると、先ほどの小型ボートが再び戻ってきて、怪我をしているOさんをそちらに移して運んでいった。再び牽引されてロープの網のところまで。先にKさんに網を掴んでもらう。網ごと引き上げられKさんが救助された。続いて僕の番。網に掴まるものの細い網が手足に食い込み痛い。手を放さぬよう必死に歯を食いしばって掴まり、甲板に引き上げられる。甲板にたった時、「助かった」と思った。

甲板にいた船員たちはインド人かと思ったが、英語のたどたどしさや船員同士で話す言葉を聞く限りでは中東の人々のようだ。いくつか質問される。他にも漂流者はいるのか、全部で何人か、どうしてこういう状況になったのか。救護室に向かって歩きながら、わかっている限りのことを説明する。船員たちは「大丈夫か兄弟」「リラックスしろ兄弟」と言いながら過度と思えるくらい手厚くいたわってくれた。救護室に入るとベッドには既にインドネシア人クルーが一人寝ていた。真っ赤に腫らした目で抱擁を求めてくる。「君1人か?」と聞くと「そうだ」と。怖かったに違いない。1人でよく生き残ったと思う。船員用のツナギに着替え、コーヒーを飲ませてもらって一息。このコーヒーはとても美味しかった。Kさんに「よかったですね」と声をかける。「うん。ただ、今まで考えないようにしてたけど、他の人は」……返す言葉がない。

やがて別の船員が救護室に入ってくる。「英語は話せるか?」「問題ない」「インドネシア語は?」「少しなら」「沿岸警備隊に連絡するが、先方はインドネシア語しか話せないかもしれない。このインドネシア人クルーに話してもらうが、彼は英語が話せない。通訳してもらえないか?」「わかった」操縦デッキに移動し、無線で通信。ノイズが多くてよくわからない。とりあえずほとんど何もしないまま、インドネシア人クルーと沿岸警備隊がいくつか言葉を交わして終了。ちなみにこの操縦デッキはこのタンカーの中でも高い位置にあるため、周囲の海がよく見渡せる。ここから四方の海に目を向けてみる。まだみんな海上を彷徨っているのではないか。それとももう沈んでしまったのか。救命ボートで漂流している時に見たダイビング船の残骸を操縦デッキからも見つけることができた。双眼鏡を持っている船員に「あそこに誰か見えないか?」と聞いてみる。「いないようだ。だが近くに船を回してみよう。ただもう沿岸警備隊がこちらに向かっている。本格的な捜索は彼らに任せよう。」残骸の他に僕らが乗っていた救命ボートも見えた。鮮やかなオレンジは海上でさすがによく目立った。救命ボートに乗っているうちは「こんな小さなボート、タンカーから見たらただのブイにしか見えないのでは」と思っていたが、そんなことはなかった。今まで何隻ものタンカーに見つけてもらえなかったのは、ボート自体の視認性というより単に目を凝らして外を見る船員がいなかったからだろう。

そうこうするうちに沿岸警備隊が到着。我々はこのままこのタンカーで陸地に搬送されるのではなく、沿岸警備隊の船に乗り移りそれに乗って陸地に搬送されるとのこと。Oさんの容態を確認するために彼が収容されている部屋に行く。ひとまず包帯が巻かれ応急処置は済んでいる模様。安堵の表情だが、麻酔等もされておらずまだ痛む様子。「大使館に一報入れておいた方がいいのでは」と言われ、大使館へ連絡をしに再び操縦デッキへ。ウェブサイトで大使館の電話番号を調べ、艦内の衛星電話のようなものを船長に借りて大使館に電話。通話品質は低くノイズが多かったが、大使館の職員の方になんとかこちらの状況を説明。こちらの3人の状況を確認した後、大使館職員がすぐ通話を終えようとしたので、相手の言葉を遮って「もともとは6人いて、まだ他の3名が見つかっていないんです!」と叫ぶと、「もう救助されて病院に搬送されていますよ」との言葉。「あれ、なんでそんなに早いんだ?」と一瞬思ったが、ダメだと思った他の3人が全員救助されていたことを知り、「ああ、よかった!」を連呼。本当に安堵した。その後、経緯に関する簡単なレポートを船長に書かされた後、再び救護室のある階下へ。KさんOさんは既に沿岸警備隊の船に移っていたので、僕も彼らを追って移動。沿岸警備隊の船に移る際、タンカーの甲板に並ぶ船員達に改めてお礼を言う。沿岸警備隊の船内で、KさんOさんの2人に他の日本人が全員無事だということを伝える。

沿岸警備隊に揺られてチレゴンの港へ。後で聞いたら僕らが救助されたのは午前11:30頃だったとのこと。沿岸警備隊の船に乗ったのが12:30頃で港に着いたのが14:00頃だった。結局昨晩21:00頃の沈没から実に14時間ほど漂流していたということになる。港に着くと救急隊員に加えて既に報道陣のような野次馬のような人々が。写真を取られつつ、彼らの合間をくぐって救急車へ。

チレゴンの救急病院に到着。既に他の3人の日本人は病院にいた。抱擁。よかった。本当によかった。僕の会社のインドネシア人同僚も3名ほど既に病院に到着している。チレゴンはジャカルタから車で3時間ほどの距離なので「なぜ彼らはこんなに早くここにいるんだ?僕が大使館に連絡したのはついさっきなのに」と不思議に思ったけれども、いずれにしろありがたいことには変わりない。ベッドに寝かされ応急処置を受けていると、目の前で流されていったSさんが。本当に無事でよかった。彼らに話を聞いてみると、どうやら昨晩午前1:00頃に通った明るい船(結局イカ釣り漁船だったらしい)に救助されたとのこと。つまり彼らの方が我々より圧倒的に早く救助されている。我々は「我々以外のみんなはもしかしたら……」と思っていたが、どうやらそう思われていたのはこちらの方だったとのこと。しかしあの明るい船、あそこで大きな声で助けを求めていたら、指笛でも吹けていたらと思うと、いささか口惜しい。

応急処置を終えてから、社員の車でジャカルタに戻る。ジャカルタの病院でレントゲン等の検査を受けるが、ちょっとした外傷以外特に問題ないとのこと。7月14日の20:30頃、ようやく自宅に帰宅。ようやく、帰って来ることができた。


なお、これを執筆している7月15日夜の時点で、依然としてダイビング船に乗っていた人々のうちインドネシア人2名が行方不明とのことです。少しでも早く無事に救助されることを願ってやみません。
また、救助に尽力してくださった石油タンカー船員各位、インドネシア政府救助隊各位、チレゴンの救急病院各位、情報収集・確認・配信・調整に尽力くださった会社の方々、迎えに来てくれた同僚たちに改めて御礼を申し上げると共に、皆様に多大な迷惑、心配を掛けてしまったことを心よりお詫び申し上げます。

また、今回の体験を通じて学ぶことができたのは、次の3点でした。

  1. 一歩進んだ危機管理の必要性
    実はチレゴンからの帰路で社員に叱られました。防災庁からの警報が出ていたにもかかわらず、なぜそんな時にダイビングクルーズに出かけたのかと。正直言ってそういうものを確認する意識はこれまでありませんでした。天候等に何か問題があれば当然ツアーをアレンジしているダイブショップが警告したり、ツアーを中止したりするはずだと思っていたからです。しかし、やはり自分の身は自分で守るもの。危機管理を他人任せにせず、自分でしっかり情報収集し、判断することが重要だと言うことを痛感しました。
  2. 冷静さと状況判断
    今回、沈没から救助まで、終始冷静さを保つことができたと思います。その理由は、ダイビング講習時に「パニックさえ起こさなければ大体の問題は解決できる」と習ったこと、そもそも眼前で起きている事故に実感を持つことができなかったこと、行動力に欠け、つい情報収集しより確実な判断をすべく判断に時間をかけようとしてしまったこと、などいくつか挙げられますが、いずれにせよ、冷静さを維持し、周囲を観察して情報収集し、分析し、計画を立てるということはやはり重要だということをよく理解できた経験でした。
  3. 希望を捨てないこと、希望を持たないこと
    身体のコンディション維持はもちろんですが、精神のコンディション維持の重要性も理解することができました。精神のコンディション調整、ペース配分ができたことも冷静さを維持できた一因と言えます。希望は絶対に捨ててはいけない。絶対助かると信じる。ただ刹那的な期待に全身を委ねてしまうこともしない。期待が裏切られた時のための心の準備はしておく。こういったメンタル面のペース配分ができたのは大きかったです。なお、こういうことの多くは映画や小説から学ぶことができたように思います。映画や小説も捨てたものではないと思いました。

こんな経験をした上でも海や船に対する恐怖心は不思議とありません。落ち着いたらまたダイビングを楽しみたいと思っています。でも次からは、事前の情報収集と危機管理をしっかりすること、木造の船には乗らないこと、携帯電話は防水ケースに入れて肌身離さず持っておくことなどを心がけたいと思います。どんなに備えても備えきれるものではないし、不測の事態は常に起こるものではありますが、今回の経験から学び、それを活かし、今回のような愚を二度と犯さないように努力していきたいです。


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