インドネシアでの海外赴任中、たくさんのことを学ぶことができました。
会計や人事、戦略立案などの実務的なことからインドネシア人社員との恊働の仕方コミュニケーションの仕方、マネージャとしてのワークスタイルや交渉の仕方、そして海外での生活の仕方に至るまで。学べたことをいろいろ挙げるとそれこそキリがないほど多くのことを学べた濃密な期間ではありましたが、では総じてその海外赴任の後味はどうだったか、と問われると、その答えは「自分が拡張した感覚」という言葉に落ち着きます。
不思議とその後味は、「成長」とか「向上」とかそういうものではなく、「拡張」。
そもそも海外赴任を志望した動機はなんであったか。
このエントリーに書きなぐってある通り、僕が海外赴任を志望した理由は当時抱いていた危機感、焦燥感でした。
あっという間に流れていく時間とそれに伴う加齢、その速さに能力向上が比例しない現状、一方で加速するグローバリゼーションと、安定雇用の解体、職の二極化と容赦ない結果主義能力主義時代の到来。この世界をどう生き抜くかと考えた時に、「このままじゃヤバい!特に明確なビジョンもないけれど、とりあえず海外で仕事しといた方がよさそう!」と飛びついたのが海外赴任を志望した本音の理由でした。
結果としてどうなったか。
海外赴任前に感じていた、上述した危機感、焦燥感のようなものは今では驚くほど消え去っています。しかし、驚くことにそれらが消え去った理由は自分の能力がそんな危機感を払拭できるくらい向上したからではありません。現在に至っても僕はまだ仕事において胸を張れる専門性を確立できているわけではありませんし、そもそも「この分野を極めたい!」といった意思や志もまだ持ち合わせていません。英語はそこそこに話せるようになりましたが、未だに洋画は字幕なしではわかりませんし、ネイティブスピーカーと話すのも依然として四苦八苦です。
そうであるにもかかわらず、なぜ危機感、焦燥感が消えたのか。
その理由が「拡張」でした。
さて、本書は泣く子も黙るジャーナリスト佐々木俊尚氏の最新刊。氏のキャリアについてはここで長々と述べる必要もないと思いますが、個人的には氏の「おれはこう思うんだ!」感が強く前に出た論考、かつその論理と感情のバランスが適切に配合された論考がとても好きです。特に3.11以降に散見された「マイノリティ憑依」という現象を解析しつつメディアから個人に至るまでの世界との向き合い方について論じた「当事者の時代」は非常に考えさせられる内容でした。
そんな氏が著した本書は、インターネットがもたらす第三の産業革命が既存のビジネスのみならず国家や民主主義まで崩壊に至らしめるのではないか、という点について論じた内容。このことを説明するためにわざわざ中世まで遡り、国家というものの成り立ちや歴史、そして現代の形に至るまでの経緯を振り返った上で、最終的にはインターネットがもたらすフラット化は世界を国家というフレームワークから<場>というフレームワークに再構築する、その<場>とはあらゆる分野に存在しており、<場>同士が「レイヤー」となって重層的に世界、ひいては自分を構築する、として述べています。
日本人としての自分、会社に勤める自分、音楽という趣味を持つ自分、ブログを書いている自分、そんな無数のレイヤーに散らばる断片としての個性の集合が自分というものであるということ。この「レイヤーとプリズム」という感覚は非常に僕にはしっくりくるものでした。
では僕が感じた「拡張」とはどういうことか。
それは日々感じてきた些細な感覚の集積。
日本にいた時と同じようにインドネシア人と普通に仕事ができていることに気づいた瞬間、彼らと僕らの給与格差の理由に思いを馳せた瞬間、日本で採用されたインドネシア人を現地ビジネスに関わらせることができないという矛盾を知った瞬間、休暇の度に当たり前のように国境をまたぐ瞬間、一方同じ国内でも民族や文化が異なることもあるということを知った瞬間、ビジネスにおける共通語が英語に収斂していくことを目の当たりにした瞬間、逆に言えば英語さえ話せれば世界中のほとんどの地域で仕事ができるとわかった瞬間、世界中どこにいてもインターネットさえあれば自分のiCloud、Facebook、Twitter、Evernote、Dropboxにアクセスできることを確認した瞬間、それらのサービスさえ使えればどこにいても普段通りの生活ができるとわかった瞬間、またそれによって世界中どこにいても友人や大切な人とコミュニケーションできると実感した瞬間、世界中どこにいても好きな音楽を買ったり映画をレンタルしたり本や雑誌を読んだりできる便利さに興奮した瞬間、バリでのバケーション中にiPadでメールを確認しつつSkypeで日本にいる同僚と話しながらExcelファイルを仕上げて送りながら僕の仕事に場所なんて関係ないんだと思った瞬間、何年かダイビングのインストラクターでもやりながらぼんやり暮らした後でもおそらくどこかの国のどこかの会社にそこそこの給料で雇ってもらってそこそこに悪くない暮らしができると思える瞬間。
国、もう少し厳密に言えば「日本」とか「オフィス」という物理的な場所からの解放を感じた瞬間。
「会社」とか「仕事」、「イエ」といった論理的な場所からの解放を感じた瞬間。
物理論理両方の意味で、「ウチ」から「ソト」に放り出されることに怯えて暮らさなくてもいいんだとわかった瞬間。「ウチ」にしがみつかなくても生きていけるんだとわかった瞬間。
海外赴任中はこんな瞬間、体験の連続でした。それは自分を縛るものから少しずつ解き放たれる文字通りの解放感。
個々の瞬間、体験はとてもささやかなもの。しかしその感覚は自分の仕事や趣味、生活のすべての刹那に共通して存在していて、それ故に僕の海外赴任の後味は「成長」とか「向上」ではなく「拡張」という感覚になったのだろうと思います。
本書で国民国家とか民主主義について論じつつも結果として「己と世界の関わり方はインターネットを通じてどう変わっていくのか?」というテーマに収斂していくのはいい意味での既視感。「当事者の時代」も「ネットがあれば履歴書はいらない」も、昨今の著作の多くはこのテーマを根底に持っているように思います。本書を読むことで、僕がこの「拡張」という感覚の根幹を理解できたような気がするのも、結局は本書の最後の最後にある「第九章 新しい世界システムと私たち」から示唆を得られたことが大きいと思います。
未来を的確に言い当てるなんてことは誰にもできないと思いますが、それでもこれから世界がどうなっていくか、自分の生活がどうなっていくかという論考に目を通しておくのは損ではないと思います。短絡的な処世術が書かれた本ではないですが、未来を見通す上での示唆を得るにはとてもいい一冊です。
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