電通「鬼十則」 (植田 正也)

電通「鬼十則」 (植田 正也)


年末年始のこの時期、会社員にとっては職場の人々との飲み会が増える時期ですね。
僕はそういう会社の飲み会、結構好きです。色んな人の色んな話を聞くことができるし、僕も色んな話ができるし。一方で、昨今新聞雑誌等ではしばしば「最近の若者は飲みニュケーションをしたがらない」というような話も見られます。
「そもそもオフの時間まで職場の人と過ごす必要なんてないんじゃないか」
こんなことを言う彼らにとっては、せっかく貴重なお金を払って行った飲み会で、ご一緒する目上の方への配慮が大変だったり、彼らの態度が横柄だったり、彼らの武勇伝や説教を延々と聞かされ辟易している、なんてあたりが理由なんじゃないでしょうか。確かに配慮は大変だし、横柄な態度はムカムカするし、武勇伝や説教には辟易します。それはよくわかる。でも、冷静に見てみると、実はそんな武勇伝や説教も、案外そんなに見当違いなことを言っているわけではなかったりします。事実に反する話に脚色して武勇伝として話しているならいざ知らず、彼らが話す武勇伝や説教の多くには、人生の諸先輩方が経験して学んできたエッセンスが一定程度詰まっていたりする。

しかし、それでも辟易してしまう。それはなぜか。
その原因は、そういった目上の方々のコミュニケーションの仕方にあるのではないでしょうか。

さて、本書は泣く子も黙る天下の広告会社、電通の第4代社長吉田秀雄氏が書き綴ったと言われる「電通鬼十則」について。「鬼十則」とは、人が仕事をする上で則るべきポリシーというかガイドラインというか教訓のようなもの。ひょんなことから人にもらったので読んでみましたが、本書はそんな「鬼十則」の解説本のようです。
この「鬼十則」が綴られたのは昭和26年、今から半世紀以上も前のことです。それにもかかわらず、この教訓には本書の著者が言う通り、時代を超えて通用するメッセージが多く含まれています。「仕事は自ら創れ」「より難易度の高い仕事をしろ」「周囲を巻き込め」といったメッセージは、現代のビジネスマンも肝に銘じるべき内容だと思います。

上述したように、僕は「鬼十則」自体に対しては肯定的です。にも関わらず、本書を読んだ読後感は非常に苦い。読後感、というよりも、1/4くらい読んだあたりからずっとフラストレーションが溜まる感じ。これ、まさに「辟易」でした。
その辟易感は、本エントリーの冒頭で述べたような、会社の飲み会でもう定年も近い偉い人の隣に座らされ、なんの面白みも納得感もない話を延々と聞かされた時に感じるような、そんな感じ。人からもらった本なので著者のことはよく知らなかったのですが、押し寄せる辟易感に耐えつつ慌てて巻末の著者のプロフィールを確認したところ、「1937年生まれ」。やっぱりか……。

しかし、本書のテーマになっている「鬼十則」それ自体は納得できるもののはず。それなのになぜこうも強烈な「辟易感」が喉元を突き上げるのでしょうか。何がこの「辟易感」を生み出しているのでしょうか。

恐らくその理由は著者のコミュニケーションの仕方。そしてその特徴は、下記のように整理されるのではないかと思います。

  1. 無茶に断定し、
  2. その断定に根拠がなく、
  3. さらに言い方が感情的。

わざわざ3点に分解しましたが、要するに

最近の若者は根性なしばかりだ!!

というような感じです。すぐに反証可能だったり事実とは言い切れないことを闇雲に断定し、しかもそこに論理的科学的な根拠はない。さらに多くの場合これらの発言は「憤り」や「呆れ」などの感情を交えて現れます。最近の若者だけでなく昔の若者も根性なしだったなんてことは容易に想像がつくことですし、またこれらの言説は統計データに基づいたものではなく、往々にして発言者の印象に依るもの。しかもリンク先の文章にも見られる通り、これらの発言に「怒り」や「呆れ」が伴うと、いくらこちらが根拠について質問したり論理的に反証したりしても、おそらく聞く耳を持たず建設的な議論にならない。
議論にならないコミュニケーションは、ただの一方通行の講演会であり、学ぶべきことがない講演会への出席はただの時間の無駄です。今の若者が飲みニュケーションを忌避する理由は、このように「退屈な講演会に出席させられる上、手伝いまでさせられる。手伝ったけど出席料は取られた。」というような状況だからだ、と考えれば理解できる気がします。

本書では上述したような物言いが随所に見られますが、その例を少し挙げてみましょう。

第二章、鬼十則の第二「仕事とは、先手先手と働き掛けていくことで、受け身でやるものではない。」について解説した部分で、日産のカルロス・ゴーン社長のエピソードを挙げています。ゴーン社長は1999年に「日産リバイバルプラン」(本書では「リバイバルプラン2000」)という経営改革案を発表し、それを実行した結果2001年にV字回復を実現しましたが、それについて筆者はこう述べています。

カルロス・ゴーン社長の仕事は、「リバイバルプラン2000」までである。この後の実施は、作業である。「リバイバルプラン2000」の成功は、企画書の形になって社内外に出る前に決まっていた。少なくとも九〇%は、世の中に出る前に決まっていたと言える。

えーと、無茶です。真面目に検証する気もたちどころに失せてしまうような文章ですね。
組織の中でなんらかの改革をやろうとした方なら、計画も難しいがそれ以上にその実行が困難であることは身に沁みてわかっていることとと思います。全ての要素、事象を計画段階で漏れなく洗い出すことなど不可能だからです。にも関わらずこの物言い。さらに、この計画を全てゴーン社長が立案したかのような記述になっているのもおかしい。当然このような計画をゴーン社長一人でまとめ上げることなど物理的に不可能で、Wikipediaにも「日産社内の若手・中堅幹部を中心とした組織、クロスファンクショナルチーム(CFT)を発足し、再建の計画をまとめたものである。」とあります。もう一つ重箱の隅をつつくようなことを言わせて頂ければ、「リバイバルプラン2000」という文字列はGoogle検索ではヒットしませんでした。日産のウェブサイトでも「日産リバイバルプラン」と記載されているので、こちらの名称が正式なものだと思います。この程度の事実確認すらしていないのか。こんな短い文章の中に溢れる突っ込みどころ、しかもそれらは事実確認を怠った上での思い込みによって綴られている。そしてその物言いは感情的で、自分が誤っている可能性など微塵も考えない。
上記の文章はまださほど感情的ではありませんが、下記のような文章に見る感情はもはや首を傾げるばかり。2001年の田中真紀子外相と外務省との諍いについて述べた部分です。

小者同士が争うとどうなるか、これほどわかり易い事例は、あまりない。馬鹿丸出しのドタバタ劇。あれが、一流と言われる大学を出て、上級国家公務員試験に合格した国をリードする人間のやることか。とても、この連中に日本国のグランドデザインなどできない。

著者が当事者であってその上で断定可能な情報を十分に持っていたとしても、公にされる書籍上でこのような表現を使うのはとても僕には考えられません。
本書はこんな論、表現のオンパレードです。

こういう方と飲み会で出くわしたら、「なんだかよくわかんないこと言ってるし……なんだ特にまともな理由もない思い込みか。多分反論しても……議論になんないんだろうな。適当にスルーしとこ」となるのは至極自然なことだと思います。この著者のように「つべこべ言わず黙って聞け」的な態度で話されると、つまり議論のスタートから「おれが上、お前は下。下のヤツは疑問も反論もナシで上の人間の話を黙って聞くこと。」的ルールを押し付けられると、「辟易」という二文字がドーンと脳裏に浮かんでくるのだと思います。
これとは逆に、とても勉強になると思える諸先輩のお言葉は、やはり論理的で納得感が高いです。穏やかな口調で話をされ、異論にも寛容です。そういった場合は、本当にその議論が勉強になる。高圧的な物言いという点では著者と共通項があるとも言える大前研一氏の物言いにあまり辟易しないのは、氏の論はやはり論理的で納得感があるからです。

僕も最近若くなくなってきて、職場の飲み会で歳下と話す機会もチラホラ見られるようになってきました。この本を反面教師にして、「目下に辟易されない話し方」を学ばねば!とただただ焦るばかりです。

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